「社会貢献していてりっぱやね~。」
「若いのに高齢者のことを考えていて偉いね~。」
と声をかけていただくことがあります。
私の仕事は、”社会貢献”系の分野に入るそうなのですが、
私としては、”社会貢献をしている”という認識はなく、
かけていただく言葉に、どこか違和感を感じることがあります。そんな思いを掘り下げて綴ってみました。
私の行っている活動(お仕事)は、
〇高齢者がいつまでも自分らしく暮らすお手伝いをしたい
〇地域で気軽に集える場を作りたい
このような思いで行っています。
これはいわゆる”当たり前”の感情で、それをお仕事として取り行っていることは、はたして”社会貢献”なのでしょうか?
例えば、ひと昔前に日本には”介護”という仕事は存在せず、子供や近所の方が支援するということが行われていたことと思います。
地域には気心の知れた人が暮らしていて、その人たちと交流を持つということは、当然のように行われていたことと思います。
人口減少(高齢者を支えるマンパワー不足)・寿命の伸長・暮らしの変化なども相まって、昔から自然と行われていたコミュニティや良い風習が減少しているのだと感じます。
そう考えると私の行っている活動は、社会貢献ではなく当たり前を取り戻すための活動だと言えるのではないでしょうか?
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例えばボランティア活動をしているというと、社会貢献をしているように思います。
以前、お仕事でご一緒していた介護施設の施設長が、このようなお話をしてくださいました。
「うちは基本的にボランティアをお願いしてないんです。
以前はボランティアの方にお願いすることはあったのですが、”やってあげている”感が強くて、そのような物をこの施設も利用者も望んでないんです。
この施設では、賃金をお支払してプロの役割を果たしてくれる方にお願いしています。」と。
このお話から私は2つのことを感じ取ったのですが、
1つは、無償で何かを提供したいう活動自体がボランティアなのではなく、”自分が出来ることで見返りを求めずに役に立ちたい”というその志がボランティアなのではないかというところ。
2つ目は、やってあげている=自分本位(自己満足)であって、相手がやって欲しいことを提供できてこそボランティアなのではないかというところです。
わんせるじんぐはボランティア団体ではないので、そもそもこの事例に当てはまらないのですが、この施設長が話してくれた言葉と社会貢献と言うものが、非常に深い結びつきがあるように感じました。
当たり前を取り戻す環境作りをすること。
役割を果たし、食べていくこと。
やはり私の行っている活動は、社会貢献活動ではないと感じています。